山本智之の「海の生きもの便り」

2024年4月 Writer: Tomoyuki Yamamoto

第38話 ヘンテコ深海魚便

駿河湾に生息する深海魚の1種「フウリュウウオ」(Malthopsis kobayashii )=山本智之撮影

駿河湾に生息する深海魚の1種「フウリュウウオ」(Malthopsis kobayashii )=山本智之撮影

■深海魚が水揚げされる港町

 日本のダイビングの中心地として知られる静岡県・伊豆半島の大瀬崎。そこから南へ10キロ余り車を走らせると、戸田(へだ)という静かな港町に着きます。ここでは、駿河湾の深海魚を対象にした「深海底びき網漁」が盛んに行われています。

【写真左】駿河湾に面した戸田の海、【写真右】深海底曳き網漁の漁船の水揚げ風景=いずれも山本智之撮影

【写真左】駿河湾に面した戸田の海、【写真右】深海底曳き網漁の漁船の水揚げ風景=いずれも山本智之撮影

 戸田港には、ソコダラ科のトウジン(Coelorinchus japonicus)をはじめとする様々な種類の深海魚、そして、深海性の甲殻類であるタカアシガニ(Macrocheira kaempferi )などが水揚げされます。「深海魚料理」を売り物にする飲食店が複数あり、観光客の人気を集めてきました。

 しかし、ほかの観光地と同様に、新型コロナウイルスの感染拡大によって、戸田でも一時は観光客が激減してしまい、飲食業や宿泊業は窮地に立たされました。その結果、せっかく深海魚を水揚げしても、飲食店などを通じて消費されなくなり、戸田の漁業者たちはピンチに直面しました。

 こうした状況をなんとか打開しようと、新たなアイデアを打ち出したのが、兵庫県出身の青山沙織さんです。「地域おこし協力隊」のメンバーとして戸田で暮らしていた青山さんは、ネット経由で注文を受け、水揚げされた深海魚を宅配便で国内各地の消費者へ送り届けるシステムを考案。「深海魚直送便」として、2020年春にスタートしました。戸田を訪れる観光客がコロナ禍ですっかり減ってしまった時期も、漁獲した魚を直送便に乗せて販売することで、漁業者たちは深海底引き網漁を続け、収入を得ることができたのです。

【写真左】駿河湾で漁船に乗り、水揚げされた深海魚の仕分けをする青山沙織さん、【写真右】深海魚を発泡スチロール箱に詰め、発送の準備をする青山さんら=いずれも本人提供

【写真左】駿河湾で漁船に乗り、水揚げされた深海魚の仕分けをする青山沙織さん、【写真右】深海魚を発泡スチロール箱に詰め、発送の準備をする青山さんら=いずれも本人提供

■「ヘンテコ便」は「おまけ」がきっかけ

 「深海魚直送便」は当初、「食べておいしい深海魚」だけを対象にしていました。ただ、深海底引き網漁の現場では、食用には不向きな種類の深海魚も網の中にたくさん入ってきます。青山さんは当時、それを「おまけ」として、お客さんからのリクエストに応じて一緒に送っていたそうです。

 「ミドリフサアンコウがほしい」、「メンダコを入れて」――。お客さんからは様々な依頼が来ました。食用ではない深海魚や深海生物も、かなり人気があったのです。これが、新たなサービスとしてこの年の秋、「ヘンテコ深海魚便」を始めるきっかけになりました。

 食用には向かないけれど、姿や形が面白い様々な深海魚たちを詰め合わせにして、全国各地へと発送します。深海魚に興味のある大学生、魚の標本の制作者、絵画作品のモデルとして深海魚を使う人など、当初の予想を超えた幅広い人々から注文が入るようになりました。「結構、需要があるのだなと思いました」と青山さんは振り返ります。

 たとえば、ミドリフサアンコウ(Chaunax abei )は、鮮やかな色彩、そして、かわいらしい表情が人気です。食用にすることも可能な魚種なのですが、あまりに小さな個体だと、従来は流通に乗せるのが難しかった魚です。

駿河湾に生息する「ミドリフサアンコウ」(Chaunax abei )=山本智之撮影

駿河湾に生息する「ミドリフサアンコウ」(Chaunax abei )=山本智之撮影

■深海の未利用魚は「宝の山」

 このように、漁獲されても流通することがなかった深海の「未利用魚」たちは、実は「宝の山」だったのです。その日の漁獲内容によって、魚のほかに、深海性の甲殻類や貝類、ウニ、ヒトデなどが詰め合わせに入ることもあります。「地域おこし協力隊」を2021年3月に卒業した後も、青山さんは戸田の地に残って深海魚直送便の取り組みを継続。「しずおかの海PR大使」として、深海魚の魅力を発信し続けています。

 2024年現在、「ヘンテコ深海魚便」の価格は、発泡スチロール入りの1箱あたり税込み5,000円~7,830円(送料別)。私も実際に注文してみました。複数の種類の深海魚の詰め合わせですが、どんな魚種が入っているのかは、箱が着いてからのお楽しみ。ワクワクしながら発泡スチロールの箱を開きました。

筆者の自宅に届いた「ヘンテコ深海魚便」の中身=山本智之撮影

筆者の自宅に届いた「ヘンテコ深海魚便」の中身=山本智之撮影

 届いたのは、ふだん私たちが鮮魚店で見かけることはまずなさそうな、変わった姿の深海魚ばかり。このコラムの冒頭の写真「フウリュウウオ」(Malthopsis kobayashii )も、「ヘンテコ深海魚便」で届いたものです。ユニークな面構えで、どこか可愛らしさを感じる魚です。

■魚類の分類研究にも貢献

 深海魚直送便の利用者の中には、深海魚が好きな一般の人々とは別に、大学や研究機関で働くプロの研究者も含まれています。京都大学総合博物館の研究員、松沼端樹さんもその一人です。

 松沼さんらは2023年、ヒウチダイ科の新種を論文に発表しました。「ネジトゲハリダシエビス」(Aulotrachichthys spiralis)という魚です。水深25~219mに生息し、全長は最大で10cmほどです。

新種として論文に報告された「ネジトゲハリダシエビス」(Aulotrachichthys spiralis)。写真の個体は、深海魚直送便で研究者が入手した駿河湾産のパラタイプ=京都大学総合博物館の松沼端樹さん提供

新種として論文に報告された「ネジトゲハリダシエビス」(Aulotrachichthys spiralis)。写真の個体は、深海魚直送便で研究者が入手した駿河湾産のパラタイプ=京都大学総合博物館の松沼端樹さん提供

 新種として記載するにあたって、松沼さんらは紀伊半島沖や土佐湾、九州南部沿岸などから複数の標本を集めて検討を行いました。このうち、駿河湾産の標本は、深海魚直送便で入手することができた1個体のみだったといいます。

 魚などの生物を新種として論文発表する際に、その根拠となる標本を「タイプ標本」といいます。このうち、「ホロタイプ」は、新種を記載する際に1個体だけ選んで指定する、新しい学名の基準となる標本です。「ネジトゲハリダシエビス」の場合は、紀伊半島沖の個体が「ホロタイプ」になりました。

 複数の標本があり、このうちの1つをホロタイプとする場合に、ホロタイプ以外の一連の標本のこと「パラタイプ」といいます。「パラタイプ」には、個体によって異なる形態や大きさのばらつきを示すなどの役割があります。深海魚直送便で研究者の手に渡った駿河湾産の貴重な1個体は、この「パラタイプ」に指定されました。

 松沼さんは「これまで廃棄されてしまっていた魚が、標本として手軽に入手できるのが深海魚直送便のメリット。そうした魚の中には、学術的に価値の高い標本が含まれている」といいます。

 コロナ禍を機に、漁師さんを助けようと青山さんが始めた深海魚直送便。利用者の裾野が大きく広がり、魚類の分類研究にも役立っているのです。

■筆者プロフィール

科学ジャーナリストの山本智之さん

山本智之(やまもと・ともゆき)
1966年生まれ。科学ジャーナリスト。東京学芸大学大学院修士課程修了。1992年朝日新聞社入社。環境省担当、宇宙、ロボット工学、医療などの取材分野を経験。1999年に水産庁の漁業調査船に乗り組み、南極海で潜水取材を実施。2007年には南米ガラパゴス諸島のルポを行うなど「海洋」をテーマに取材を続けている。朝日新聞東京本社科学医療部記者、同大阪本社科学医療部次長、朝日学生新聞社編集委員などを歴任。最新刊は『温暖化で日本の海に何が起こるのか』(講談社ブルーバックス)。X(ツイッター)は@yamamoto92